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人間科学研究所とは

気配りのできる人を社会を求めている

マニュアル化の弊害

先日もこんなことがありました。
ある社長さんが嘆いていました。
若手社員が社長と廊下ですれ違いました。
すれ違いましたが挨拶も一礼もない、ということ。
挨拶は社会人としての常識だろう、と注意したところ、新入社員が一言、「自分は上司からは、廊下で人とすれ違った時に挨拶をしなさいとは指示を受けていないし、社内のマニュアルにも書いていない」と悪びれた様子もなく言ったそうです。

こんな社員がいる会社が、応用力を必要とする「何が起こるかわからない状況」をうまく乗り越えていけるわけもなく、大事なお客様を怒らせて会社のイメージを下げてしまうことは間違いありません。

また、この社員が自主的に仕事をこなせるはずもなく、個人としての人生を豊かで幸せに生きられるはずもありません。

これは笑いごとではなく、現実にこういった人間が社会に多く吐き出されているのです。

あなたの会社は大丈夫ですか?

こういった例のように、マニュアル化が進めば、そのマニュアル化に依存する、そしてそのマニュアルが人生の価値をも決めかねない。
すると、余計に「察する」能力は低下していく。
当然、人間のロボット化が進み、大事な仕事や定年や退職後、また、人生でのさまざまな転機に遭遇した時に、的確な判断はおろか、きちんと思考したり、行動したりすることが何一つできない人間になっていく、もしくはそういった人間を大量に作っている、ということになります。

さらに、言葉の裏側にある人の心を汲み取るという、人間同士のコミュニケーションの基本の基本すら失わせていってしまいます。

そうすると現在のような家庭や会社、友人同士、取引先といった私たちの生活の基本を作っている人間関係が全てうまくいかず、当然、仕事そのものや、個人の人生そのものはうまくいくことはありません。

それらの蓄積が潜在的にストレスとしてつもり、「うつ病」になってみたり、「攻撃的」になってみたり、といったことを引き起こします。

また、自分が直接責任を取らなくてもいい関係、例えば、インターネット上であるとか、メール上でバーチャルなやりとりにしか関係を築けなくなっていくのです。

先日、何かの記事で、アメリカのトップクラスのホテルが世界を戦略するために社員に対してどういった教育をしたか、ということがありました。

それはなんと、日本にある「気配りの徹底」だったそうです。

お客様が口には出さないが望んでおられることのすべてを提供する、ということです。
つまり、「察する」アメリカバージョンです。

おそらく膨大な量のマニュアルが作られたことと思います。
マニュアル化の行着く先は、その全てを文書化しなければならない、という不合理です。
もちろん私たち日本人であっても、何かひとつのことをする時に膨大な文章が必要です。
しかし、もしも、私たちの察する文化が今現在も徹底されていたならば、こんなことは一言か、二言ですんでいたはずなのです。

日本人特有の文化「察する」能力は、それほど高度なものなのです。